こころの6:鶏と卵

どちらが先か

鶏が先か、卵が先か。大昔から人々を悩ませてきた問題だが、その判断は見る者の立場によって大きく変わる。
哲学者はプラトンもアリストテレスも似たような見解で、それはどちらが先というより、鶏も卵も本質は同じものであると言う。時間が経つにつれて卵から鶏へ、鶏から卵へと見た目が少し変わるだけ。もともと同じものだから、どちらが先も後もない。
分かったような、分からないような。哲学の話を聞くと煙に巻かれた気がする。
キリスト教ならば答えは聖書にあって、創世記の記述は以下のもの。
「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」
こうして、まず鳥が生まれて、 神はこれらを祝福して言われた。
「生めよ、ふえよ、海たる水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」
つまり神様は魚や鳥を作って、その鳥に卵を産めと言ったのである。
同じ宗教でも仏教の教えは輪廻転生。永遠に生まれ変わって六道を生きることになるので、始めもなければ終わりもない。哲学者の見解と同じで、どちらが先でも構わない。

他にも生化学や数学、生物学の立場で、いろいろな主張があるけれど、先の先を見て地上に生き物が誕生した歴史を振り返れば、卵が先に決まっているのである。
何といっても生き物の元祖はDNAだから。そのDNAが次のDNA、またその次を作って何十億年もかけて生き物は進化を遂げた。
この構図は今でも変わりがなくて、DNAがつまった卵から生まれるの次のは卵である。でも、進化を重ねた結果、鶏の卵はあまりにも複雑な構造になってしまったので、次世代の卵に移行するためには、相応のシステムが必要になる。そのための派生物としてできたのが鶏。

鶏と卵の違い

そんな卵は動かない、鳴かない、見ない、意思がない。もちろん心もない。それでも雛がかえって成長する過程は、全てDNAに仕組まれた情報による。
一方で鶏は動いて、鳴いて、好みもあれば恐怖心ももつ。鶏には鶏の意思があって、貧弱ではあっても心をもつようになった。
こうなると人の見る目も変わってきて、ビーガンの中には鳥肉はだめだけれど、卵はOKなんていう集団も出現した。大学の先輩は子供の頃、泣き叫ぶ鶏を締める現場を見て、以来鳥肉が食べられなくなった。でも、卵は食べる。
心をもつのは鶏だけではない。人にいたずらをされたカラスは仕返しをするし、ネコがおもちゃにじゃれて遊ぶのは心をもつからこそ。犬や猿はいわずもがな。

高等動物の共通点は、よく発達をした中枢神経系と脳で、動物の心は人間と比べて大きな違いがあるかもしれないが、それは程度の差であって、根本的な相違ではない。
その生活とは常に膨大な情報を手に入れて、膨大な処理をすること。それを可能にしたのが、よく発達をした脳と中枢神経系で、情報を一元化して管理をすることができる。気象や敵や食べ物や、刻々と変わる外界の変化にも、臨機応変の対応をする。判断力や記憶力の発達も必須のこと。これをプログラムやアルゴリズムと言ってしまうと、元も子もないけれど、DNAに支配をされた従来の生物世界のルールとは異次元の心である。

心は時として、生き物の法則と矛盾することがあって、自殺をするのは人間だけ。ただ生存する上では無用に見える音楽もスポーツもブランド嗜好も生まれた。生き物のルールの中で、入れ子のように新しいルールができて、様々な人間模様を描くことになる。