こころの11:心のルーツ

進化と心

カッコウはホオジロやオナガなど、他の鳥の巣に卵を産んで、孵った後の子育てもまかせきり。こんな具合だからカッコウは、一生自分の親に会うことはない。
そのカッコウの雛は成長をすると、また別の鳥の巣に卵を産む。親に教わることもなく、他の鳥を欺いて子育てをするような技が、遺伝的に伝わっていくかと思うととても不思議。

人の行動を決める際の司令塔は二つあって、一つは生物としての遺伝的要因。もう一つは人間の心としての要因である。
遺伝的要因とは、どんなに複雑であろうと、カッコウの子育てのように進化にともなった遺伝子由来の指令。
もう一つは人間としての経験と記憶に基づく脳の指令、心の指令である。
ただ、両者は簡単に区別のできるものではなく、実際の生活の中には、どちらの要素も入り混じった行動になる。
10年も前だったか、「絆」という字が一年の漢字一文字に選ばれたことがあった。東日本大震災から復興の中で見られた社会の規範や、助け合いが注目された年。日本中が心の絆に誇りを持ったし、感動もした。
絆の他にも人々が聞いて心地よくなる言葉は愛、恩、情け、連帯、自己犠牲、感動など。文句のつけようがない内容に水を差すわけではないけれど、人はこんな言葉を聞くと、脳内に快楽物質が産生されてよい気分になる。
脳科学の立場で見ると、何とも味気ない説明になってしまうのです。

しかし、このような正義は人に限ったことではなくて、動物たちも群れを作って社会生活を営む。その中味は人間より単純かもしれないけれど、助け合いもあれば意地悪もあって、人間の社会の縮図。
スズメやツバメは自分の子でもなくても、仲間の子育てに参加をすることが多く、こういう鳥はヘルパーと呼ばれる。
ニホンザルの群れでは、何らかの理由で親がいなくなっても、群れ全体で子育てをした。ともに暮らせば家族と認められる社会であった。

こんな風にして動物の社会との共通点を探れば、鳥にもサルにも「絆」の類はあって、それは生物として進化の一環のようにも見える。人間の場合、それがちょっと高尚になっただけで。
それとも、他の生物の進化とは違って「絆」とは新しく生まれた「心」の世界として見るべきだろうか。
従来の受け身、一方の機械的な体制から脱却し、行動の自発性と能動性を獲得したとすれば、まさにその時点で自らの中に今までなかった何者かが生じたと考えられる。これは、心の始まりとみなしてよい。

人の立場

あえて心の面で、人が動物と異なっている点を探れば、人は他人の立場にたって、物事を考えられること。
子供がかわいいのは3才までという説があるけれど、まんざら根拠がないわけでもなく、子供はこの間、他人の心を推し量ることをしない。無垢な子供は嘘もつかないし、悪態もつかない。
ところが5歳児ともなると、大人の社会との交流を始めて、結構悪さもするし人の心を読む術を知る。10歳を過ぎるころからの成長は著しく、時間軸でものを判断するようになって、社会との軋轢をおこさないような大人に成長をする。この中で恥の概念も生まれた。


この点、最もわかりやすいのが、例えば将棋のような勝負事で、勝つためには先の先まで相手の心を読む必要がある。これを言ったら、これをやったら人が何を感じるか、常に意識をしてそれを利用する能力が発達をする。
今、英雄のような棋士の藤井聡太。迷惑な話かもしれないが、彼が5歳だった頃、どんな少年だったか想像をする。
人の心を読む能力とは生物学的な進歩と違って、個人的には記憶と意識がもとになった心と言ってよいと思う。社会生活の中で生まれた心である。
そしてもう一つ、人が動物と違う大切な点は、いずれ自分が死ぬことを知っていること。
遺伝子の情報には終わりがないけど、心の住処である脳はいずれ消える。人はここに恐れを感じて、何につけ生きる意味を欲しがるようになった。
魂とか、死後の世界という感覚が生まれるのもこれ。ただ、宗教の問題はあまりにも壮大で言及できない。

いずれにせよ、人の判断が遺伝子由来の支配と、経験や記憶に由来した心の支配を受けることに変わりはない。ただ、その主導権は次第に遺伝子の支配から、脳の支配に移りつつある。