余生の終わり

長寿

義父は瀬戸内海の小さな島で生まれた。能美島という。お寺の九男坊で、実家の寺は長男が跡を継いだ。他の兄弟もたいがい仏門に入ったけど、義父は医師の道を選んだ。

当初、広島市民病院に勤務をしており、たまたま原爆が投下された日には広島市を離れて助かったが、翌日には市の中心地に戻って、怪我人の手当てにあたっていた。
皮膚が焼けただれた人、散乱する焼死体、死臭の漂う焼野原など、小説「黒い雨」を始めとする多くの資料が残って、今でも戦禍の詳細を知ることができる。義父は、まさに惨状を体験しているはずだが、何故かその様子を話すことはない。
その後、尾道で小さな診療所を開設し、平和な人生を送って88歳の時に医院を閉じた。

引退後は何の制約もない、のんびりした暮らしが待っているはずだったけど、さすがに90歳を超えると、あまり快適には見えなかった。若いころから患っていた糖尿病のせいもあって、24時間の導尿を強いられて、どこに行くにも尿の袋をぶらさげて歩く。心臓も満足に動かない。加えて緑内障と白内障。
テレビをつければ音量は最大にして、夏でも暖房を入れることがあった。長寿を喜ぶというより、日々が少し痛ましい。
それでも老老介護の日々が続いて96歳になった。

終末期

ある日突然震えがきて、意識が遠のいた。その場の対処をして、自宅で暮らせば、遠からず自然死を迎えたのかもしれない。しかし、往診を頼んだ医師の勧めもあって、入院という選択をした。
状況を見ればあまり適切な判断とは思えないが、自宅での看取りは家族の負担が大きくなることもあるので、私が出る幕ではない。一つ、確かなことは、自宅か病院か、本人が選べる状況にはなかった。
実際は自宅での看取りを望みながら、7割を超える人が病院死を迎えるのが日本の現実である。

その病院にもいろいろな方針があって、義父を受け入れてくれたところは、徹底した延命治療を推奨する病院であった。その積極的な医療に賛同できないのなら、適切な施設を紹介するとのこと、すぐに転院を余儀なくされた。
勧められた病院は、患者の希望を受け入れてくれる方針で、自宅に近いこともあって、頻繁な面会も可能になった。
妻は義父の入院につきそうために尾道に帰り、しばらくは病院で寝泊まりをすることになる。

10月14日。
病院を移って、義父はベッドの上で目を覚ませた。
「わしは病気らしい」
あとは聞き取れない言葉を言って、かすかな意識が戻ったりまた眠ったり。こうしてたそがれの時を過ごす。

10月17日
水が飲みこめない。
「・・・もう仏様のところにいく・・・おばあさん、世話になったのう・・・さよなら」
後はとにかく眠る。ときどき、あわ・・あわと聞こえる。

10月20日
聞き取れる声がでた。
「水が欲しい」
しかし、どういう理由か、水は与えられなかった。
臨終を迎える人は、通常の半分程度の水分摂取と聞く。看護師がこの基準を忠実にまもったのか、あるいは点滴で体中が腫れあがっているので、水分を控えたのか、理由はわからない。
ただ、水を欲しがる義父の姿を、傍らで見るのは辛かったに違いない。


10月21日
意識を取り戻した。
「医療はこんなに痛いもんか!」
自分が散々行ってきた医療だけど、医師だった記憶は残っていただろうか。
その後は傾眠傾向が続いて、寝たり起きたり。妻は義父が元気だったころの思い出がうかんだのだろう。「ありがとう」と声をかけると、義父ははにかんだような笑顔をする。
さらに3日が経って、苦悶の表情が続く。

余計なお世話かもしれないが、苦痛を感じさせるだけの余生に医療が関与して、さらに延命するのはどういうものか。一所懸命長距離を走ってきたマラソンランナーが、ゴール直前になって、さらにゴールを遠ざけられるような。

その日は喉が渇く表情。妻が再び「ありがとう」と声をかけると、「うんうん」とは頷くが、声は出ない。腕をさすると表情は少し穏やかになった。
こんな形でも、臨終の間際に心のこもった別れができる親子の関係は羨ましくも思う。

10月27日
声をかけても反応はない。

10月28日
下あごを下げてかろうじて息を吸う。尿は出ない。

義父は自ら病気と気づいてから2週間が経っていた。そして多分、寿命が2週間のびた。遅かれ早かれ死を迎えるための終末期に、医療は邪魔をしてはいけない。
ただし、自宅で、穏やかな死を迎えるには、本人も家族も、従前から死を受け入れる覚悟がいる。

96年ぶりに義父は生まれ故郷の能美島に帰った。
私は詳細な事前指示書、リビングウィルを書いた。