九品仏1:極楽の偏差値

九品仏の名称は浄土宗浄真寺という。九躰の阿弥陀如来像が安置されるのが特徴で、この辺りでは九品仏と呼ばれるようになった。

寺の正面には般舟場とあって、ここは本来質素な念仏道場であった。仁王門をくぐると正面には二本の大イチョウがあり、その他、都内で最大と言われる茅の木が東京都指定の天然記念物になっている。その他、昭和天皇御手植の松もあるけど、これはあまり知られていない。下図の中央にその松がある。

      三仏堂は一枚の写真におさまりませんが。

本堂に対峙するように上品、上品、下品の三仏堂があって、それぞれに上生、中生、下生の三躰の阿弥陀様が安置される。全部で九躰。この阿弥陀様がいるところが彼岸で、本堂のあるところが此岸。自分は朝の散歩の途中、彼岸の阿弥陀様に参拝をした後に向きを変え、その日の仕事のために気持ちを整えてから、此岸の本堂に向かう。

なぜ九躰もの阿弥陀仏があるか。それは、観無量寿経に示された九通りの往生を示したものなのである。人は生前の品性によって、上の上から下の下まで九段階の分類が行われて、往生の仕方が決められる。上品上生、つまり上の上に分類される品性とは、
誠実な心と深い信心をもち、浄土に生まれることを願って善行功徳を積む
どうも次元の違った世界に見える。こういう人は金剛の台(うてな)をもって、死後即座に極楽往生をすることになっている。上の中も似たように貴い人であるが、往生の際には金剛の台が紫金の台になる。

        上品に安置された三躰の阿弥陀様

以下、少しずつレベルは下がってくるが、はずしてならないポイントが下の上辺りにくる。と言うのは下品上生までは死後、往生をして極楽に行けるのだけれど、下品中生から下は地獄に落ちるのである。この最下位合格とも言うべき下品上生とは
方等教典を誹謗せずといえども、かくのごとき愚人、多くもろもろの悪を造りて、慚愧あることなし

「かくのごとき愚人」と言われて、反論をする意図はないが、私は大乗仏教を誹謗することはしない。しないけれども、これまでにもろもろの悪を造った覚えは確かにあり、この中には慚愧に耐えぬものもあれば、何とも思わぬこともあって、ここを厳しく査定をされると地獄行きになる。情状酌量となれば極楽の縁に引っかかる。今のうちから閻魔様にご挨拶をしようと思って、帰りには閻魔堂に寄る。

その地獄とは、聖衆来迎寺六道絵出典の地獄絵図に描かれていて、これ以上はないと言わんばかりの、わかりやすい苦悩が見える。燃え盛る炎の中に落ちていく人、骨と皮ばかりに痩せ衰えて鎖に繋がれる人、鋸で腹を引き裂かれる人など。ただ、余計なことかもしれないが、この図を見る限りみんな薄着であまり寒そうには見えないから、地獄とは南方か、あるいは溶岩の吹き出る地下にあるのだろう。

一方、極楽はといえば、当麻曼陀羅図の中央には仏様が描かれており、周りを阿弥陀様や菩薩様が囲む。ここはいやに静かな世界で、風も音も臭いも感じられない、寂静無為のところである。
極楽とは日々温泉につかって、風呂からあがれば、なまめかしい美女が酌をしながら、かしづいてくれる処と思っている人がいるかも知れないが、それは明らかに間違いなのである。

極楽とは恐ろしく退屈そうな世界で、一旦ここに来てしまうと、現世と違って七十年とか八十年で終わる訳ではない。これを永久にやっていくかと思うとため息がでる。
極楽に行ける確約もないままに、図々しい発想かも知れないが。地獄と極楽しかないのならば、それは極楽に行きたいが、やはりその中間がいいのだろう。となると現世なのだろうから、文句を言わずに精進をしよう。せいぜい悪業を避けて、極楽にいくために参拝をするのは下品上生の阿弥陀様かな。

九品仏1:極楽の偏差値” に対して2件のコメントがあります。

  1. 山本博史 より:

    緑内障でお世話になっているものです。最近、更新があまりなかったので久しぶりに見てみました。頻繁に更新されるようになっていたのと、新しいホームページになっていて驚きました。
    年に200日は浄真寺に散歩に行くのですが、九品仏の9体の意味を初めて知りました。ありがとうございます。もうちょっと頻繁に覗きたいと思います。

    1. 土坂 寿行 より:

      コメントありがとうございます。今は少し時間もできて、月2回の更新を目指しておりますので、またの機会にご覧ください。

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