居酒屋たぬき

赤ちょうちんは男芸者

いつまでたってもはっきりと覚えている光景があって、暗い畑の中にポツンとぶら下がった居酒屋「たぬき」の赤ちょうちんもその一つ。描こうと思えば、今でも絵に描ける。かれこれ三十年も前のこと、「たぬき」は小田急線の狛江近くにあった。当時の狛江駅は、三輛編成の電車がようやく納まる小さな駅で、辺りは畑と空き地だらけ。夜ともなれば懐中電灯が欲しくなる。
そんな狛江の夜に適当な飲み屋を探してみたが、街には蕎麦屋の他に食堂が何件かあるだけで、ぶらぶら歩けばたちまち闇の中にいた。そこで、目を引いたのがおでんと書かれた赤ちょうちんだった。店の前には信楽焼きのたぬきの置物があった。

引き戸を開けると中は静まりかえっていた。数人でいっぱいになるカウンターと小上がりがあって、変わったことといえば、鴨居の上に掛けられた数枚の額。セピア色に変色した写真は、どれも日本髪を結った芸者で、中には舞台のお披露目を納めたものもあった。
カウンターの端に座ると奥から八十の頃合の亭主が出てきて、愛想よく迎えるでもなく疎むでもなく、ゆっくりとした仕草で目の前に腰をかけた。魚や野菜が並ぶはずのガラスケースは空っぽで、品書きもない。横にあるおでん鍋からかすかな湯気が上がっていた。
畑の中の居酒屋で客は私一人。亭主はもしや本物のたぬきではないかと思うほど。二度、三度盃を運んだ頃、亭主が口にしたのはやはり壁にかかった写真のことだった。

聞けば亭主は男芸者だった。源氏名はたぬき。言われてその丸顔を見ると、写真の正体は確かに目の前の亭主である。ただ、同じ人物とわかるだけで、今わずかに残った髪の毛に、日本髪の面影はない。
大正から昭和にかけて、日本橋ではかなりの売れっ子で、今でもそれが自慢である。ひいきの旦那はいくらもいたし、芸者衆が集まる舞台はとにかく艶やかだった。店の調度品から着物、髪飾りにいたるまで、身の回りは贅をつくしたものばかりで、今のようなまがい物はない。

気が進まない風に始めた話だったが、華やかな頃への想いは途切れることがない。
物心ついた頃から女を夢見て、女になる努力を続けた。あれをしたいとか、これが欲しいとか、そんな欲もあっただろうが、何より女であることを願って女を演じて、そして見事に男芸者として花を咲かせた。
日本橋でも上玉で、今の女性が失ってしまった艶美さを披露したが、誰よりも本人が知っていたように、妖花はやがて化け物となる。白い肌は象牙色に変わって、増え続ける小じわを映す鏡をどんなに恨んだことだろう。人生で最も悲しかったことは、日本髪が結えなくなったことだった。

芸者として幾許かの余命を残す頃に、その姿を数枚の写真に刷り込んで、日本橋を去った。当時の源氏名がそのまま看板となって、この地にできたのが居酒屋「たぬき」。
そう言っておでんを取り分けてくれる亭主の指は、話と裏腹に節くれだって、手の甲には大きなしみが目立つ。今はこの居酒屋で、明日生きる糧を得るだけの暮らし。何をするでもないが女であったこと、それも一流の女であったことを語り続ける。

たぬきのゆくえ

「たぬき」を訪れたのはこれきりで、何度かあの日の赤ちょうちんが頭に浮かんだが、そのまま十年も過ぎただろうか。ある日、不意に亭主に会いたくなって、狛江を訪れることにした。
もちろん当時のままの「たぬき」を期待したわけではなく、店のあった跡だけでも見れば気が済んだのだろう。しかし、ベッドタウンとして急速に発展したこの街に、思っていた風景はない。そこは住宅で埋め尽くされて、記憶に残る地形はすっかりなくなっていた。
平らな地面なら、遠くに見えたはずの目印の松を頼りに、およその見当がつくはずだったが、歩き始めると自分の居場所すらわからない。古い構えをした酒屋や書店で尋ねてみたが、「たぬき」なる居酒屋を知る人もいなかった。

この時を最後に「たぬき」のことはすっかり忘れて、さらに二十年余りが経った。車で狛江近くを通りかかると、何と通りに面して居酒屋「たぬき」があるではないか。信楽焼きのたぬきも置いてある。
車を自宅に置いて、その足で狛江に向かうと、果たして店は以前の「たぬき」と同じくらいの大きさで、カウンターの中では夫婦者が気ぜわしく働いていた。小上がりはない。店の中にはそこかしこたぬきが配してあって、箸置きのたぬきも目がこちらを見つめている。今度はガラスケースの中に魚もそろっていた。
カツオを摘みながら最初の生ビールを飲んで、ころ合いを見計らって昔の「たぬき」のことを切り出してみた。四十代の亭主から「それは親爺です」という返答を密かに期待したが、やはり「たぬき」の看板はただの偶然だった。
夫婦は数年前に川崎から越してきて、この店を構えたのだという。看板をこしらえる時に、たまたま横にたぬきの置物があって、安易についた名前だった。

それでも夫婦は以前、狛江に「たぬき」という居酒屋があったことを知っていた。店がなくなった後、着流しの老人が昼間から蕎麦屋やスナックで酒を飲んでいたことも。
ただし、その老人を直接に知っていたわけではなく、私と同じように昔の「たぬき」の面影を探しにやってきた客から聞いたのだと言った。