自由が丘遺産1防火用水

火事と喧嘩は江戸の華。江戸の町には火災に備えて水を溜めた桶があちこちにあった。天水桶と言った。この備えが昭和の時代まで続いて、自由が丘にもコンクリート製の水槽がそこかしこ置いてあった。ついでに各家庭の前には、道路の端にコンクリート製のごみ箱もあった。

やがて消防の設備が整って、今ではめったにみかけなくなった水槽だけど、自由が丘の街の中心、女神通りに多分最後の一つが残っている。ひかり街のちょうど向かい側で目抜き通りの一角である。
水槽は蓋がしてあるので、実際水が入っているのか分からない。

この防火用水の持ち主は今は店を閉じて、ガラス戸も目隠しをしてあるので中も覗けない。近隣に並ぶのはお洒落なレストランや高級な衣料品店。派手な街並みの中で、閉店した店と水槽に気づく人は少ないだろう。

かつて東京大空襲の時には、ふとんを防火用水の水で濡らして、これを頭から被って逃げたと聞いた。戦後は焼野原に、みかん箱を並べて雨露をしのぐばかりの店が生まれた。この集まりが、やがて自由が丘デパートとひかり街に発展する。
昭和29年、建て替える前のひかり街は今にも崩れそうな木造で、吾妻寿司の前を行進するのはチンドン屋。最後に見たチンドン屋はパチンコ屋の新装開店の宣伝だったか。

このコンクリートの水槽は多分、こんな時代にできたものだろう。もうすぐなくなると思うので、せめて写真に残しておこう。

後日このブログを見た方から教えて頂いたことですが、上記のお店は元八百屋さんだったそうです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です