九品仏2:白鷺草

四季

世田谷の浄土宗浄真寺は通称九品仏。かつて奥沢城だったものが念仏道場に変わって三百余年の歴史をもつ。参道に入ると両脇に松が並び、寺に近づくにつれて欅、いちょうが混ざって、秋になると松の濃い緑もくすんでくる。
般舟場とかかれた総門をくぐると、もみじの紅といちょうの黄、それに緑も加わって、夕陽が射し込んだ境内は万華鏡のよう。もうしばらくすると、すっかり葉を落とした枝が、澄んだ空に葉脈のような紋様を描く。
見事な桜吹雪を見たのは、ついこの間のような気がするが。
境内には何時できたものやら、朱の灯篭がずらりと並んで辺りを赤く染める。その灯篭の一つ一つに白鷺草があしらわれて、龍護殿と記された本堂の前で、最近目をひくようになったのは二羽の大きな白鷺。でも、歴史のある寺に派手な白鷺の置物はちょっと似合わない。
そう言えば総門をくぐって右手にあった閻魔堂も、反対側に引っ越して一回り大きくなった。

ここ10年か20年か、九品仏は再開発のように建て替えが続いた。たくさんのもみじが植えられて、それが今では大きく成長して、秋の紅葉を演出する。その間、東門の中にあった幼稚園はなくなった。古い建物が二軒取り壊されて、新しくできたものも、いつの間にか目に馴染むようになった。
仁王門の横には池があって、春になるとここでオタマジャクシを捕ってきた。しばらくは我が家の水槽で泳いでいるが、ある日突然青蛙に変身する。朝起きるとたくさんの小動物が居間を飛び回っているのである。オタマジャクシは一斉にかえるので、その日のうちに全部集めて、池に戻さなければならない。一家総出の仕事だった。そんな古い記憶があるが、今はこの池もなくなった。

白鷺草

九品仏は変わる。この中で変わらないものの一つが奥沢城の痕跡で、それはぐるりと境内を取り囲む土塁。これが貴重な史物であることを示す看板がたって、今は近づくこともできないが、私が子供の頃は土塁の上を自転車で駆け回った覚えがある。

この土塁はともかく、なぜ九品仏に白鷺草なのか。昭和の始め頃まで、白鷺草は参道の露店商で土産物として売られていた。それは古老たちの思い出話で、最後に自生の白鷺草がとれたのは昭和12年とのこと。
古老たちの話では、九品仏の北側に大きな池があって、夜になるときつね火が見えた。目黒に行く時には、池の近くから日に二回馬車の行き来があるので、朝に出かけて夕に帰る。それが唯一の交通手段。もちろん東横線も大井町線も通っていなかった。
古老が話題にした、その白鷺草の装飾が数年前から九品仏の境内に、いやに目立つようになったが、理由はわからない

そもそも九品仏の前身、旧奥沢城は周囲を底なし田圃といわれる自然の堀で囲まれ、北側の池も城の守りに好都合であった。
当時奥沢城主の娘、常盤姫が十二人からいる世田谷城主、吉良頼康の側室となった。中でも美形だった常盤姫は頼康の寵愛を受けて、めでたく子を宿すことになる。いつの時代も美形というだけで人生に差がつくもの。
しかし、これに嫉妬をした他の側室らによって、不義の噂をたてられ、常盤姫は無実を訴える手紙を白鷺の足にしたためて、実家の奥沢城に飛ばす。
しかし、たまたま奥沢城近くで狩りをしていた頼康は、この白鷺を射落としてしまう。そして白鷺の足に結ばれた手紙を見た頼康は噂の真偽を知って、急ぎ世田谷城に帰るが、常盤姫はすでに自害をして、男の子は死産であった。
今は何人か孫をもつ身の自分が死んだところでどうということはないが、子を宿した女が無実のまま自害をするのは、さぞ口惜しかったことだろう。
そして、白鷺が死んだ地には美しい花が咲き乱れ、人々はこの花を白鷺草と呼んだのです。(九品仏ホームページより)

九品仏は春には見事な桜が咲く。真夏は蝉が鳴いて涼しい木陰を作る。秋には紅葉が鮮やかで、それを過ぎると運が良ければ雪景色が堪能できる。 いつ見ても心和む風景だけど、そんな中の白鷺草なのです。

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