自由が丘遺産3井戸

井戸巡り

渋谷から自由が丘に引っ越してきたのは昭和34年。今でこそ若者や外国人に人気の渋谷で、大規模な再開発の途中だが、当時はまだまだ戦後の面影を色濃く残す街であった。

小学校の屋上は焼夷弾が落ちた跡で凸凹。あちこちに空地があって、落とし穴を造ったけれど、だれも落ちなかった。斜面に掘られた防空壕は恰好の遊び場で、それはどこまで入っていけるかという肝試し。
広尾高校の校庭には屋根の崩れた洋館があって、この地下室もまた探検の場所。今なら立ち入り禁止の札が立ったと思う。

電機は普及していたけれど、度々の停電に備えて、ローソクとマッチは欠かせなかった。ただ、電機はガスとも水道とも連動していなかったので、停電といっても暗くなるだけで、たちまち生活に困ることはない。暗闇の中のローソク生活もなかなか楽しい思い出になった。
水道も同じで、断水ともなれば自衛隊の給水車が頼りで、飲み水をもらうためにはバケツをもって列に並ばなければならない。

江戸は浅海で井戸水に塩分が混ざっていたため、関東の水道は江戸幕府の開設前から整備が始まった。
始めは主に玉川上水を水源とする素掘りの水路だったが、やがて石や木で水道を造り、人々はそこから上水井戸に水を汲み上げて、生活用水とした。
徳川時代に突入すると水道を拡張して、明治以降も人口が増えて、また水道を増設して。戦禍や地震で断水になればその修復拡張。

小河内ダムが完成をしてからは、断水はめっきり少なくなった。小学校のときにはバスを連ねてそんな小河内ダムと西新宿の浄水場の見学に行った覚えがある。
こうして水道は普及をしたけれど、それでも庭に残った井戸は現役で、水道代の節約や何かの理由で水が届かなくなった時に重宝をした。

父は冬でも早朝にこの井戸水を頭から被って冷水摩擦を行っていた。水道水よりも幾分温かかったのかもしれない。
それでもふんどし一つで水を被る度にフ―っと声を上げて、足をばたつかせていたところをみると、余程冷たかったのだろう。

今から考えるとこんな行為は果たして健康によかったのか。それでも92歳まで生きた。

井戸の時代

昭和30年代。東横デパートにはエレベーターガールがいて、当時の女性にとっては憧れの職業だった。屋上には遊園地があって、遠くから見ればいくつも見えるアドバルーン。金魚売もガマの油売りも見た。紙芝居はお菓子を買わずにみていると追い払われて、小遣いを持たないと近づけないという現実も知った。

自由が丘駅前のロータリーに植わっていたは柳。南口の遊歩道は呑川が流れて、あまりきれいな川ではなかった。街灯もまばら。川沿いには何件か連れ込み宿があった。いまどきこんな言葉を使っていいものか、わからないけど。
木造の商店街は雑然として、当初はチンドン屋もいたし、バナナのたたき売りも見たことがある。今朝、刑務所を出たという押し売りはゴム紐が定番。
他にも日銭を稼ぐ職業がたくさんあったけど、大方の商売は姿を消した。
しかし、未だに目にするのが竿だけ売りと廃品回収業。

「たけや~、さおだけ~」
「くず~、おはらい~」

鉄屑でも新聞紙でも重さを測って何某かの金になった。
今の竿だけ売りは、普通の竿竹を買えばいいのだろうけど、高級なアルミ製を竿を勧めらえて、これを寸法に合わせて切ってしまうと、これまた法外な値段になる。
学校から帰るとランドセルを放り出してそのまま遊びにいった。小学校の授業など、何一つ聞いていやしない。
宿題もなかったわけではないけれど、やっていった覚えがない。「忘れた人」と言われる度に手を挙げた。家を飛び出して、近くの神社や空き地は、そのままで遊び場。

セミを取って、池があればザリガニ取り。ただの広場で野球をする人数が集まらなければ三角ベースや缶蹴りが流行ったかな。
家に帰れば漫画。鉄腕アトムに鉄人28号が人気だったけど、当時は貸本屋という職業があって。1日で1冊5円だったか10円だったか。借りるのは土日で、友達と二人で借りてその日のうちに回し読みをするのが節約術。

上の図は当時の貸本屋。やがて貸本からパン屋に変身をして、それも何年か経って今の姿になった。看板にはかろうじて「貸し」の文字と上塗りをされた「パン」の文字が見える。

自然も遊び場もなくなった。世の母親の発する「危ない」というヒステリックな叫びのために外にも出られない。代わりにと言っては辺だけど、子供の周辺に登場したのが育児書とモニター。全員が同じ方針で同じ方向を向いて育って、ここに塾でも登場したらちょっと可哀そう。