仮屋村の和尚さん

仮屋のお寺

源頼光が大江山に住む大蛇を退治に行く途中、若狭に仮の陣屋を設けて3年間滞在した。その地を仮屋村と言う。
妊婦が出産のときに一時的に籠ったり、あるいは不浄とされた月経の数日間、籠ったところを仮屋村という。
何が本当かわからないが、私はその仮屋村で生まれた。すぐに東京に来てしまったので、記憶に残るのは、子供の頃に毎年訪れた夏休みの仮屋村。30戸ほどの小さな村にあったのは八幡神社。お寺は1キロほど離れた関の村にあって、その寺の裏手に我が家の墓があった。

車一台がようやく通る細い坂道を上がって山門をくぐると、境内のまん中に立派な桜が一本あって、これを楊貴妃桜という。このあたりで最も気品のある桜と聞くが、残念ながらお寺に行くのは毎年の夏だけで、開花を見たことはない。桜のまわりの境内は、小さな子供たちの遊び場になっていた。鬼ごっこにボール遊び。
右手には釣鐘堂があったけど、大戦中に金属類が回収されてしまって、肝心の釣鐘がない。古ぼけた本堂は、足を踏み入れると湿っぽい畳が少し沈む。この本堂の脇で、和尚さんは村の人たちを集めて話をしていた。話が終わるとみんな頭を下げていたから、何かの説教だったのか。それとも、たまたまその時の会合だったのか。

女性の和尚さんは、比丘尼と言った方が正しいのかもしれない。50歳くらいに見えた。ただ、頭を剃っている訳でもないし、お務めの時は別として普通の服で過ごしていたので、見ただけでは和尚さんとはわからない。

左手に立派な庫裏があって、和尚さんは一人で暮らしていた。私はいつも突然の訪問だったけど、その度、喜んで迎えてくれた。
庫裏の土間を上がるとすぐに目につくのが書棚。仏教に関する書物の他に、哲学書の全集が大きな場所を占めて、そこにはパスカルからデカルト、ニーチェまで分厚い本が並んでいた。
座敷を通って広縁に出ると、向かい合わせに二脚の藤椅子があって、ここは涼しい風が吹き抜ける特等席。
目の前には大きな池があって、その先はすぐ山につながる。緑で覆われてはいるけれど、急峻な山は庭を取り囲む仕切りのよう。

お寺は山すそにあることが多くて、二階に上がって西の窓を開ければ屏風のような山、東の窓を開ければ農家の屋根と田圃が広がっている。
池には鮮やかな色の鯉がたくさん泳いでいたけれど、先日黄金色の鯉が鷹に捕られてしまった。

私が中学生の時分だったから、ここでたわいのない悩み事をずいぶん聞いてもらった。
まわりはみんないい人だから、世間を疑わなくていい。よい本をたくさん読んで、普通に暮らせば幸せになる。和尚さんはこんな話をしてくれた。

お寺の夕食

夕食を頂くことになって、その日は煮つけと漬物、ご飯の夕食で、汁はない。
和尚さんは食事の前に、バヤリースオレンジと書いた箱の中から、ビールの小瓶を一本出してきた。女が寺で一人晩酌をしても目立たないようにと、酒屋が気をきかせてジュースの箱に入れたビールを運んできてくれる。
そのビールを飲みながら和尚さんはいろいろな話を聞かせてくれた。

この辺りは山に餌がなくなると動物が降りてくる。昨年は外でごそごそするので、そーっと窓を開けてみると、柿の木に登ったクマと目があってしまった。
庫裏の周りには柿の木が植わっていて、その実は飢饉の際の非常食にもなる。実際、若狭は平地が少なく、稲がとれなかったので、どの家も度々おこる飢饉に備えていた。山に食糧がなくなると、クマはその柿の実を食べにくるのである。
戦争で鐘は取られてしまったけど、実は冬の朝は鐘を突く必要がなくって、よいこともあった。


こんな話をしながら和尚さんは、煮つけをきれいに食べきって、残りの汁をご飯にかけた。漬物と一緒にこのご飯を食べて、その煮つけの皿に湯を注いで、骨の出汁が出ればこれが晩御飯の汁。洗ったように綺麗になった皿に残った頭と骨は池の中に放り投げた。あとは鯉がきれいに平らげてくれるので生ごみはでない。

夕食を終える頃、曇った日には田舎の道は闇になる。前年は夜道が危ないと言われて、二階に泊めてもらったが、開け放った窓からムササビの侵入があって、飛び起きたことがあった。どっちにしろ恐ろしいので夜道を帰ることにした。曲がりくねった街道の左は山、右は田んぼのはずだけど、どちらも漆黒の闇。その中にほんのり白っぽい道が見える。足元で蛙が跳ねただけで、飛び上がるほど怖かった。

何十年か。長い無沙汰をして、この度は久々の訪問。あの和尚さんはもういない。楊貴妃桜は相変わらず。庫裏も本堂もきれいに修繕をされて、釣鐘も下がっていた。
「よい本をたくさん読んで、普通に暮らせばよい」
中学生を相手の説教は当たり前のように聞いていたけど、今にして思えばお釈迦様の中道の教えだったのかもしれない。