仮屋村のふみちゃん

熊川から

京は遠ても十八里。小浜でとれた新鮮な鯖は傷まないように、ひと手間かけてから若狭街道を通って京都に運んでいた。

途中必ず通るのが熊川の宿場町で、その熊川が最も発展したのは江戸の初期。魚に限らず米や豆や様々な物資を輸送して交通、軍事の要衝であった。そんな熊川も一時はすっかり忘れられていたけど、もともと川の流れる綺麗な街並みで、今は観光地として復活を目指す。若狭街道も鯖街道と呼んで、広く知られるようになった。
古い町屋造りの民家はリフォームをして、工芸品を売ったりカフェができたり。中でも一棟貸しの古民家宿は人気で、百年前の暮らしを髣髴とさせる。

4月とは思えぬ暖かい日が続いて、この古民家宿を訪れた。人気の宿とはいえ、なぜ急にこんな遠くの熊川を訪れる気になったのか。それは、私の生家が隣の仮屋村にあったから。
仮屋で一人暮らしをしていた婆さんが歩けなくなって、車で迎えに行ったのは50年も前。その時に何かと世話をやいてくれたのが隣のふみちゃんだった。
ふみちゃんは昼間のほとんど畑で過ごす。合間をぬうように家事をこなして、とにかくよく働いた。
夕飯をご馳走になったときには、ものすごく大きな鍋に、野菜がたっぷりはいった味噌汁がどんと置いてあった。それに山盛りのたくあん。何回も味噌汁とご飯のお代わりをして、合間にたくあんをつまんで、それは美味しかった。 

その後、仮屋村の家は人手にわたって解体をされ、とんと寄りつかなかったけど、この度は久々の訪問である。
すっかり人通りのなくなった旧街道をゆくと、多分このあたりに家があった、というところにたどり着いたが、よくわからない。
行ったり来たりしていると、畑に座っていた年寄に声をかけられた。
「どなたさんじゃえ」

ちょっと不審に思ったのだろう。急いで返事をした。
「弥助です。弥助の寿行です」

   ーこの地方では互いに名字ではなく屋号で呼ぶのがならわしである。正確なところはわからないが、弥助という名の先祖が200年ほど前に、かっての我が家を建てて、以来私の家族は孫にいたるまで弥助さんと呼ばれるー

半世紀がたって

「あれー懐かしや。弥助さんかえ。よう来なすった」
この歓迎の言葉は、その後何度も繰り返されることになる。
声の主は隣のふみちゃんだった。ふみちゃんとじっくり会うのは多分50年振りくらい。92歳になって、この場所に座っていなければ、絶対にふみちゃんとはわからなかっただろう。

昨日までとはうって変わってコートがいるような寒さになった。それでも、ふみちゃんは畑に厚めのクッションを敷いて、その上に座っている。ただ、ふみちゃんの前には乾いた土があるだけで、野菜も雑草もない。畑に座っているだけのようで、これが何十年も続いた日常だろうか。

我が家の家族のことをいろいろ案じてくれながら、ふみちゃんの話は続いた。
息子が二人いて一人は名古屋の税務大学校に入った。今は税理士をしている。もう一人は京都で板前をやったけど、ふみちゃんはこの子がちょっと心配だった。
「板前は今なら警察沙汰になるような厳しい修行で~。そやさけ、ひどいめにおうて、休みには京都の弥助さんに泊めてもろて、よー世話になった」

京都の弥助さんとは、私の叔母のことである。
「それから~板前やめて~、大飯町に養子に行った。そんだら、もう原発のおかげで大飯町に貧乏人はおらん。どんどんお金がおりてくる。どないして分わけよかゆーて。まあいつなんどきどないなるかわからんけどー」

ともあれ、二人とも苦労はしたけど、今は安泰な暮らしの様子だった。
「あれー嬉しや。ようおいでなすった。こないだ千葉の東京に行った時~」

一生分の出来事をいっぺんに言おうとするものだから、話は飛ぶし中身を端折る。正確には姉のちーちゃんが千葉にお嫁にいって、結婚式に出るために東京に行ったとき。こう言いたかったのだと思う。ついでにこないだ、というのは多分60年くらい前のこと。
「東京駅に迎えがくる言うてたのに誰もおらんで、弥助さんに電話をしたらすぐとんで来てくれた。えー服買うて着てた」

この場合の弥助さんは私の兄を意味する。
東京に泊まったのは三日間。お父ちゃんが全部お金を出したのが、ちょっと不満だった。
「弥助さんはようけおってやけ。よしあきさんはどうしとる?」
「みんな元気そうです。ところでふみ子さん、今、ご家族はどなたと暮らしているんですか?」
私としてふみちゃんの暮らしを案じたつもりだったが、返ってきたのは別の答え。

「兄貴たちがみな死んで、私は家に残ったの。いい加減苦労したけんど、姉が三人上におったっけ、みんなそれぞれ嫁いって幸せにおる」

問題は一緒に住んでいる家族かのだが、
「私らの小さい時は私の父親、おかしな人におっぽり騙されて、昔やな。ごっつい金を私の母親がその人に、戦時中やで、私小学校の5年生くらいのとき、300円騙されたんや。
どうもこの辺には質の悪い詐欺師がいたらしい。

「でも~人の裏くぐってもどないもならん。もう全部、人が死んでしもうて、実の子も若い子おったけど、みな絶えてしもた」
悪事を働くとろくなことはない、という見本みたいな話だった。
「そうですか。それは大変でした。それで今この家はどなたと暮らして・・」
どうしても、私の話は最後まで聞いてもらえない。
「あれま、ようきなさったな~。私は蔵を直して畳敷いて座敷やね。そこにテレビおいて、とくに何にもないけんど、今は苦労も不自由もなしにおる。一人でおる。好きにしてほんまに幸せや」

それでも母屋には誰かがいて、世話をやいてくれていると思うのだが。

妙好人

仮屋に生まれて仮屋で育って、ふみちゃんは92歳になった。若さを離れたのは東京に行ったときの一度だけ。
朝おきればご飯と漬物の朝食を食べて、茶碗をふせて畑にでた。それはお務めのようで、ふと妙好人という言葉を思い出した。
「あれー懐かしや。ようおいでなすった。長生きしてうれしや。またきておくれ。私はどっこも行かへん」

年をとってお宝も体力もなくなって、どうにもならなくても、思い出だけは残る。
「今は一人でおるけど、子供は名古屋の大学校行って、税務大学行いって・・・」

どうやら話が一回りしたようなので、失礼することにした。
今度は和三盆でも土産にもって、もう一度お話を聞きたいと思う。