贋物について考える

本マグロ
ふぐの唐揚げを注文したら、運ばれてきたのは白身の小魚だった。大きなふぐの塊を想像していたので、拍子抜けをしたけど、日本の近海には食用のふぐが何種類もある。私が勝手にとらふぐと予想して、その予想がはずれただけのことだった。
シシャモも、今や日本産のものはほとんど手に入らない。スーパーや居酒屋で見かけるのは、九割方カナダ方面からの輸入で、カラフトシシャモと言う。
こんな具合だから、最近は鮮魚店にも魚が少なくなったような気がして、気が向くと都心の空気を吸いながら、築地の市場まで出かけることがある。外人の観光客が増えて混雑をするので、市場から少し離れた寿司屋にいくけれど、築地はどこに行ってもはずれはない。
帰りに土産を買うつもりで、マグロの専門店に立ち寄ったら、二種類のマグロが並んでいた。一つは本マグロと、もう一つはバチマグロ。店員に尋ねると、ブランドを好むなら本マグロ、美味しいのを食べたければ、今日はバチと言われた。
そして最後に言ったことは、
「でも本マグロの方がよく出るね」。
バチが安物というつもりは毛頭ないけれど、世の中には高級志向の人が少なくない。
「ブランドは高い、高いは美味しい」という子供の遊び歌のような思い込みがあって、本マグロというブランドだけで刺身が売れる。何だか釈然としないけど、その値段はバチも含めて、プロの競りで決まるのだから、それはきわめて公平な値付けなのです。
しかし、若干腑に落ちない面もあって、同じ豊予海峡でとれたサバでも大分側にあがれば、関サバと呼ばれてよい値段がつく。一方、四国側の船がとったら岬サバと言われて、だいぶん手ごろな値段になってしまうのです。
ブランド
驚くのはバッグや財布など、ブランド品の販売価格ですが、これもやみくもに高いわけではない。それなりの根拠があって、それは素材や人件費、ブランド価値など。それに何と言っても、世界的なマーケティングの費用がかかる。
これを原価率で割って販売価格が決まる。原価率はだいたい30%未満というから、知らないうちに結構高いものを買っていることになる。
有名なブランド店に入ると、ピカピカに磨かれたガラスに、高級感が漂った雰囲気で、自分が来てはいけない場所のように思える。そこで、きれいなお姉さんに丁重なお辞儀をされると、どこか歯車が狂ってきそう。
職場をやめる時に、仲間たちが記念にそのブランドバッグを贈ってくれた。長らく愛用していたが、取っ手の部分が壊れてきたので、修理をすることにした。思い出の品だったし。
ところが、修理を終えて受け取りにいくと、取っ手一つの交換で、目の玉が飛び出るような金額だったのです。
本物はこんな値段になるけれど、その模造品となると、おそらく原価は数分の一くらい。
それにブランド価値やマーケティングは他人の成果にただ乗りだから極めて質が悪い。ただし、あまり悪質な場合は逮捕をされるリスクを背負うことになる。
贋物師

これが絵画や彫刻になるとどうか。現代作家のものであれば、贋物が出回ってもすぐにばれる。しかし、ゴッホやゴーギャンの贋物はどうか、利休の茶碗は。
鑑定士なる人々がいて、拡大鏡を使っているけど、あれで何がわかるのだろうか。
世の中には、鑑定士の反対をいく贋作師という人々もいて、当時の絵具やキャンパスを使って、古い画家たちの技法を完璧に再現する。プロがプロの目を意識して作るのだから、完璧な贋作を見抜くのは至難の業だと思うのです。
実際、世の中には天才贋作師がいて、著名な画家たちの模造品を、新発見と称して売り歩いた事件がありました。時代考証も厳密で、世界中の美術館がだまされてしまった。日本の徳島県立近代美術館も、その一つです。
しかし、稚拙な作品はともかく、プロも見分けられないような贋作は、もう芸術の域に入ったのではなかろうか。少なくとも売り買いではなく、これを鑑賞する側から見れば。
その骨董を見る目と言えば、名の知れたのが青山二郎。小林秀雄が購入した呉須赤絵の大皿を見て、即座に贋物と断定した有名なエピソードがあります。
どうして贋物とわかるのか。「見れば解る。それだけの物だ」というのです。
本物の場合、作家が茶碗なり絵に気持ちをこめて作る。贋物の場合、作家はそれを見る人の目と、値段に気持ちをこめる。
常に本物を見ていれば、贋作がわかるということですが、世界中の美術館が騙されるのだから、やはり見ただけではわからない。
少し古い話になるけれど、オードリー・ヘップバーンが主演をする「おしゃれ泥棒」という映画がありました。
ヘップバーンの父親役のシャルル・ボネは一流の贋作師であり、贋作を売って金儲けもしたが、一方で美術館に寄付をするような人物でもあった。ときには美術品を競売にも出して、あえて目の肥えた人々の前に、自分が作った贋物をさらすというリスクも負う。
こうしてみると、一流の贋作師ともなれば、お金だけではなく、何か他の楽しみがあるに違いない。
それは世間に対する挑戦状のようなもので、多分プライドである。一流の贋作を作るという行為を一段、高みにあげた。これを違法の芸術と言うと怒られるかもしれないけれど、ただの詐欺とも思えない。また新たな美術の領域のようにも思えてくるのです。
さて、絶対にばれない贋作の価値は、どうなるのでしょうか。

