看取り

出立


義父は瀬戸内海の小さな島に生まれた。能美島という。お寺の九男坊で、長男が跡を継ぎ、義父は医師になった。尾道で長らく皮膚科の医院を開業して、88歳の時に医院を閉じた。
義父が尾道を出立したのはその翌日。小さな鞄一つで我が家にやってきた。急ぎ、長女が暮らしていた部屋を整理して、居場所をこしらえてみると、荷物もないのでいやに簡単に納まってしまった。
義父の行動範囲は狭い。自室とトイレ、洗面、それに居間の往復に限られるが、それでも部屋の位置関係が覚えられない。88才にして暮らしを変えるとは、こういうことか。
一息ついて散歩に出ると、足腰はいたって丈夫。でも、いやに段差を怖がるので家に帰って眼の状態を調べてみると、片目はほとんど見えていない。もう片方も下半分が見えない。眼圧の高い緑内障で、よく今までもったものだと思う。義父は少しふさぎ込んで、夕食も進まないまま早々に、床についてしまった。

翌日は治療計画の話をして、夕方から横浜の中華街を見物。ぶらりと入った中華料理店で食べたのは、いたって普通の広東料理。
「わしゃこんな美味しい中華は食うたことがないで。こんなものを食うとったら尾道に帰れんのう」
晩酌にビールも飲んで、今度は東京見物に行きたいと言う。
「浜の離宮はもう行った。明治神宮は大きな神社じゃろ」
それでもレトロな観光名所ほど穴場のようで、二重橋も西郷さんも見たことがなかった。
たまたまハープのコンサートのチケットがあって、東京文化会館の開演は夜だと言うのに、義父と妻は朝からでかけて行った。

二重橋を見て、神田のやぶ蕎麦で天せいろを食べた。西郷さんの銅像を見物して、夕食は精養軒のステーキ。そしてようやく会場へ。夜遅くに疲れきって帰ってきたのは妻の方だった。
「ハープはよかったで。あんな音色は初めてじゃ」
こう言うけれど、妻に聞けば端から居眠りをしていた。
動物園を見物、寄席の落語を聞いて、国立博物館の薬師寺展にも行った。訳もなく海ほたるのドライブにも出かけて、たくさん写真を撮ったけど、大半は自分の足元が写っていた。

寿司を食べて、てんぷらを食べて、
「こんな旨いものは食うたことがないで」
近くのラーメン屋にでかければ、
「こんな旨いラーメンは初めて食うたで」
そんなわけはない。尾道と言えば、名だたるラーメン店で有名な町である。

何を食べても今までで一番と言うが、これはお世辞か、数十年振りに実の娘と暮らした嬉しさか。あるいは本当にそう思っているのかもしれない。
そうだとすれば老後の人生の達人にも見える。お寺で生まれ育つとこうなるのだろうか。

こうして、思いつくところは全て行った。思いつくものは全て口にして、実娘とともに2か月半の東京暮らしを終えた。

臨終まで


尾道に帰ってからは糖尿病と腎不全の療養。久々に義父を訪ねた時には、テレビの音量を最大にして、夏だというのに、暖房をいれることもあった。何より24時間の導尿をして、生きていること自体が辛そうだった。

96歳になった。老老介護の典型で義母が世話をしていたけど、老体はいよいよ元気を失っていった。
満足に食事もとれず、水も少しずつ喉を通る程度。来るべき時が来て、度々意識も遠のくようになった。このまま暮らしていれば多分、自宅で看取られることになる。

しかし、介護をする方もかなりの高齢だった。今、入院をするべきか、このまま自宅で暮らすべきか判断は難しい。そんな中で往診にきた医師の勧めもあって、義母は結局病院死を決断した。

しかし、入院をした先は主に急性期疾患の治療にあたる病院で、ここでは徹底的な延命が施された。足の付け根から太い点滴が入って、栄養が補給される状態。夜間は身体拘束をする。それが嫌なら家族が付き添うことが条件になる。

こんな状況下で、妻は急ぎ尾道に帰って病院に泊まり込むことになった。
 手足は極端にむくんで、水を欲しがっても与えられない姿を見るのが辛い。
自分が医師のくせに知らなかったのか、義父はこう言った。
「医療はこんなに痛いもんか!」

 この病院にいたのは2週間。近隣の病院に移ってから、義父はこう言った。
「わしは病気らしい」
 日に日に体力も気力も衰えていった。
「もう仏様のところにいく」
「おばあさん、世話になったのう」
「さよなら」
 こんな言葉が最後で、一日うとうとしている。何かを言っているが声にならない。
 手足は腫れあがったままで、苦しそうな様子。妻が手足をさすると、少し表情が和らいだ。妻がありがとう、と声をかけると、はにかんだような様子で、うんうんとうなずいた。
 そして入院生活も合わせて1か月になるころ、うなずくこともなくなった。

大半の人が臨終は自宅で迎えたいと願っているが、実際はほぼ7割が病院死を迎える。
その理由は家族が面倒を見切れないことや、本人が迷惑をかけないために、あえて入院を希望すること。臨終間際になった人は、恐ろしく疲れていて、その場で判断をする気力もない。

ここに至るまでの経緯を聞いていて、自分は自宅の看取りが正解と思ったけど、何十年も連れ添った夫婦の臨終に、横から口出しができるはずもない。
結局、義父の場合も最後の医療でひと月ほどの延命がされたけれど、「医療とはこんなにいたいものか」という言葉が印象に残る。行き過ぎた臨終の医療は、自然な人の死を歪ませてしまった。

死とは見送る立場と、送られる立場があって、さらに年間40兆円という医療経済の問題も絡む。もし、自分の臨終を案じるなら、意識が清明なうちに決めておくとよいこがある。

心肺が停止したときに蘇生を望むか。

脈も呼吸もあって積極的な医療を望むか。

強力な抗生剤の投与を望むか。

人工栄養の投与を望むか。

他にもいろいろあるけれど、すぐに考えつくのはこれくらいです。